毎日がエブリデイ!

日々の雑記帳

弘前市の和徳町という町名って?

 Wikipediaの記事を読んで気になったことがあったので、私の故郷弘前市の話題をちょっとしてみる。

 弘前市には和徳町という町があるのだが、Wikipediaには以下の様に書いてある。

1889年(明治22年) - 中津軽郡和徳村成立。
1891年(明治24年) - 人口818で、戸数110、厩23。
1936年(昭和11年) - 弘前市の大字になる。
1966年(昭和41年) - 一部が東和徳・駅前一〜三丁目・大町一〜三丁目・駅前町・表町になる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%BE%B3%E7%94%BA

 つまり、1936年までは弘前市ではなく隣の和徳村という村の一部だったということである。

 しかし、弘前市の公式ページでは以下だ。

和徳町 (わとくまち)

元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。江戸時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せました。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/rekishi/koto/koto.html

 これは市のホームページに載っているだけではなく、実際に和徳町に市が立てた道標に同じ文言が書いてある。つまり、弘前市の公式見解というわけである。

 これだと江戸時代から既に弘前城下で「和徳町」という名前が与えられたことになる。

 どちらが正しいのだろう?弘前市の場合昭和の大合併で合併した村は「弘前市大字(合併前の村名)…」となることが多く、大字の後に「町」は付けられないことが多い。旧市内以外でも「町」の付く場所はあるのだが、「旧村名+町」という名前となっていることはない。なので、おそらくWikipediaの記述が誤っていると思う。

 なお、Wikipediaの「弘前市」の項には「1936年(昭和11年)1月1日 - 弘前駅を含む和徳村大字和徳、高崎、堅田(一部)を編入。」と書いてある。

 想像だが、もともと弘前市には1889年の市制施行時から「和徳町」があって1936年に「和徳村大字和徳」を編入した時にその領域が「弘前市大字和徳」となり、その「町の付かない和徳」が区画整理で色々な名前の町に町名変更され、それで混同しているのではないかと思われる。(同じような地名で「町」が付くのと付かないのが混在していることがたまにあるんだよな。弘前市の場合駅前とかがそう。)正確な事は分からないので私がWikipediaの記事を修正するという事はしないが。


 ちなみに弘前駅は設立当初は市内ではなく和徳村の村域に「弘前」という名前で建てられた。駅前が栄え出したので昭和11年に駅の周辺部を弘前市に併合した様である。(和徳村自体が弘前市と合併したのは戦後の1955年。)江戸時代から栄えている街の名前の駅が明治時代にその市ではなく周辺の村に建てられて、その後合併や一部編入等で「本家」の市の一分となるのはよくある話だ。

 1936年に弘前駅周辺部を弘前市に引きぬかれた後の和徳村は明治の大合併前から和徳村だった部分(大字和徳)が村域ではなくなったのに、1955年まで「和徳村」という本来別の場所の筈の地名を名乗っていたことになるのか。


(追記)
このページを見るかぎりでは1889年時点で弘前市に和徳町が存在しているみたいだ。それが正しいとしたら1889年の市町村制が敷かれた時点での和徳村は弘前市の和徳町とは関係ないことになるのでWikipediaの「和徳町」の記述は正しくないということになる。