毎日がエブリデイ!

日々の雑記帳

府中駅誕生100年記念展

 今日(書いてる間に日付変わったので正確には昨日)は府中郷土の森博物館に「京王電車がとおったころ~府中駅誕生100年記念~」を観に行った。とあるブログで話題になっていて、府中市民として観に行こうと思っていたのだが、開催が9/4までなので終わらないうちに観に行くこととした。夏休みに一度行ったのだが、閉館時刻を過ぎていて観れなかったので。

 京王電鉄が展示会のスポンサーなのかどうかは知らないが、府中駅まで京王線が開通するよりも前の府中の交通史も展示してあった。(府中駅開業後は京王電鉄の歴史が中心。)
 江戸時代は甲州街道の宿場町として栄えたが、明治維新で宿駅制度が廃止となり、甲武鉄道(後の中央線)は府中ではなく国分寺を通ることとなったので、府中が寂れてきたが、京王線の開通により町の勢いが盛り返したのか。

 新宿から府中までは京王電鉄として開業していたのだが、府中から東八王子(現:京王八王子)は玉南鉄道という別会社の鉄道だったようだ。
 その時代の案内図が以下の写真である。

f:id:endeavor:20160903120654j:plain

その後、玉南鉄道は京王電鉄に合併されるが、京王と玉南は軌道間隔が異なっていたため、玉南側を京王の軌間に合わせる工事が発生したようだ。

 また、玉南の府中駅はけやき並木の西側(つまり今の府中駅と並木を挟んで反対側)にあったと言われていたが、実際は京王の府中駅のすぐ隣にあって、線路は京王になる前からもともとけやき並木を跨いでいたということが最近資料が見つかって分かったらしい。

 戦前は現在の京王閣競輪場の場所に「京王閣」という京王電鉄が経営する遊園地があったようだが、その時代の案内図(昭和初期と思われる)が以下の写真。

f:id:endeavor:20160903121513j:plain

 京王閣がでかすぎると思う。縮尺は適当なのかな?東京競馬場の場所には「目黒競馬場移設地」と書いてあるので、昭和9年よりも前の時代のものと思われる。この地図だと多摩川原(現:京王多摩川)駅から東京競馬場の真裏までがずっと京王閣で、現代の中央自動車道に沿うように京王閣があったことになるぞ。

 それからこんな写真もあった。昭和16年の府中の地図である。

f:id:endeavor:20160903120323j:plain

 分倍河原駅が南武線との交点ではなくもっと北寄りにあることが分かる。私の記憶によれば、もともと京王線側は屋敷分という駅であり、南武線との乗り継ぎのために現在の場所に移転した時に分倍河原に改称したのだと思ったが、この当時から分倍河原という名称だったようだ。
 府中本町の場所も線路の交点になっていないので、今の場所と違うのかなと思ったが、場所的にはあってそうだ。当時は武蔵野線は無かった筈なので、南北に走っている線路は下河原線なのであろう。そういえば現在の下河原緑道(下河原線の廃線跡に作られた緑道)に沿っているような気がする。

 なお、この地番入りの地図を見てみると、東京競馬場は既にあるのだが、地番が複雑に割り当てられている。当時の東京競馬場府中町と多磨村という2つの自治体に跨って存在していたのである。昭和の大合併の時に府中町と多磨村(&西府村)が合併して府中市となったが、その時に住居表示が行われ、町割りも整理されて、東京競馬場の敷地は全て「日吉町」とされたので、現在の地名には別の町村だったころの面影はない。余談だが、府中市の町名は昭和30年頃の街の様子が反映されてある。例えば「東芝町」は昭和30年は東芝府中工場の敷地とイコールだったが、その後一部が売却されたりしてマンションが建っていたりする。企業名が入っている町だからといって、その企業の所有地のエリアが変わるたびに町名変更してるわけではないからね。

 京王電鉄にとってはどうかわからないが、府中市にとって京王線絡みで大きな出来事といえば、府中駅周辺が高架化されたことだが、そのことは展示されていなかった。昔はけやき並木を跨ぐように踏切があり、交通の妨げになっていた様だが、それが解消されたのは府中にとってはかなり大きいと思うのだが。

https://www.instagram.com/p/BJ5FDEOjuRa/
昔の京王競馬場線の行き先方向板


 博物館では常設展として古代から中世にかけての府中の歴史のコーナーもあって、そちらも色々興味深かった。デジカメの電池が切れたので写真は撮らなかったが。単に国府があったということだけではなく、昔から交通の要所として栄えていた街なんだな。そちらは明後日以降も行われているので、歴史に興味のある人は行ってみよう。